道具づくりの不自由さ

いま、昨日の日記を読み返して、道具づくりの不自由さについて考える。

たとえばビーンバッグは、はっきり言って、生地と中身がすべてである。もちろん何パネルにするとか、縫い方とか、糸の種類とかはあるが、基本的には素材でざっくりとした質感が決まる。ステージ系のボールも、ビーンバッグほどではないがそういうもので、結局、殻の素材感と中身の種類で雰囲気が決まる。それで残念なことに、ビーンバッグの生地も、ステージボールの殻も、中身も、僕が自分の手でつくっているわけではないので、頻繁に、というか正確にはロットごとに毎回、質感が変わってしまう。ざっくりいうと変わっていないのだが、たとえばMBのステージボールが色によってやわらかさが違うように、むかしから、ジャグラーにとっては共通感覚としてあるものだと思う。なので僕の仕事は、それぞれの変数が変わり続けるなかで、全体としてこれまでとおなじものに仕上げる、というのが、日常的に、一番やっていることなのだ。そしてそのことについて、僕は正直、不自由だなあと思っている。

でもかといって、それがとても嫌だ、ということはない。最初に「この仕様で決めよう」と思ったときのものが、ずっと、愛されているとまではいわないまでも、もう一度注文しよう、とか思ってもらえることはすごくうれしい。

素材からすべてつくるか、すべてを一品ものにすることで、ある意味で完全に自由になるのかもしれない。それはそれで、そうなってみたいという気持ちももちろんある。どうすればいいのか。売り物じゃなければいいのかもしれない。そんなこともあって、まずは「自分の最強ビーンバッグをつくろう(いまある素材で)」と思っているところ。

何事もバランスなのだと思うけど、いまはこの不自由さについて考えてみたくなったので、書いてみた。根本的に考え方が間違っている可能性もあるよなと思う。すこしそういう気もしている。


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